中島ヤス(本学園の創立者)は明治9年8月、鍋島村に生まれた。同25年に佐賀市の勧興小学校を卒業すると東京の香蘭女学校に進学するが、翌年の4月には佐賀実習女学校が設立され、創立と同時に同校に入学し、28年に卒業し、直ちに鍋島村の養正小学校に奉職した。
ヤスはある日、近くに住む梅崎ふみ子という少女の親から、"うちの娘に裁縫や礼法を教えてやっていただきたい"と懇望され、裁縫や礼法を時間外に教えることになった。これを初めに、ヤスの人柄を慕ってその教えを請う者が日を追って増え、彼らの要望に応えて、塾が生まれた。塾の生徒たちは学校から戻るヤスを門前で待ち迎え、午後の3時から夕暮れのまで、懇切な指導を受けたという。
 夫の善之は温厚で人望が厚く、養正小学校の校長を勤めたあと、青藍小学校を創立するなど、教育界で活躍し、のちには佐賀清和高女の初代校長となった人である。当時の中島家には、昼は女子がヤスを師と慕い、そして夜は青年たちが善之を師と仰いで集まってきた。
 一男一女が学齢に達した明治37年、中島一家は佐賀市内の与賀町に転居した。ヤスの教え子たちは鍋島村から与賀町までの一時間半もの道のりをものともせず、熱心に通った。塾生は程なく100名を超えている。
 ヤスはいつも、こう言っていた、-多くの生徒を預かっている以上、私は生徒のために、できるだけ新しい知識を待たなければならない。そのためには、自分は常に研究を怠ってはならない-と。彼女は暑中休暇を利用して上京し、講習会に出席して得た新しい知識を、新学期には生徒達に教授した。
 明治45年の夏、ヤスは小学校5年生の長男、貞善を伴って上京。東大赤門の前に立ち、この赤門をくぐって卒業せよと、貞善を激励した。貞善少年はこの言葉を心に刻み、のちに東大法学部に入学する。
卒業後は王子製紙などの企業に勤務したあと、佐賀旭高等女学校の二代目の校長に就任している。
 大正12年、ヤスは佐賀裁縫女学校を設置した。同校は昭和4年、文部大臣の認可を得て、佐賀高等裁縫女学校に昇格している。研究心の旺盛なヤスは、昭和10年の秋に朝鮮半島と中国の東北地方を視察に出かけた。
 教育事業の順調な進展を不幸が襲った。昭和12年の日中戦争である。同年、長男・貞善の応召に続く、長女・米子の死、さらに翌年には、夫の善之が逝った。しかし、ヤスはこの不幸にもめげなかった。"精神一倒、何事か成らざらん"の不屈の精神を持つ彼女は、その情熱を女子教育に傾注する。昭和18年にヤスの教育に対する労が認められ、教育功労者として藍授褒章を授与された。
 昭和21年、ヤスは私財を投じて財団法人を組織、ここに学校が法人経営になったことに伴う、校名の改称が持ちあがった。そこで関係者一同によって、30に余る校名が持ち寄られた。ところが、協議がいつまでも結論を見ない。最後は、校長のヤス先生に一任しようということになった。ヤスはしばらく考えてから、"旭高等学校にしたい"と述べ、その理由について、以下のように説明した。
  旭と言いますのは、ただ単に、校運隆々旭が昇るごとく、と言うだけではありません。もちろん、校運は発展せねばなりませんが、それよりも、この学校では、全生徒に対して、公平無私の態度でなくてはなりません。
  世の中で、一番公平なのは太陽です。貴賎貧富の差なく、万民に対して平等です。私は、この学校の関係者が全生徒に対して、あたかも太陽のような気持ちで接してもらいたいという意味から、旭高校と名づけたいと思います。
 校名に選ばれた"旭"には、中島ヤスの教育に対する信念が、象徴的に表れている。同年6月には、長男・貞善が戦地ビルマから帰還、この11月に学園創立50周年記念式典を挙行した。翌22年4月、ヤスは貞善に校長の職を託した。
 昭和25年12月10日、関係者によって中島ヤス頌徳碑が、現在の高校の中庭東側に建設された。その除幕式に、彼女は紋服に深紅の薔薇をつけて出席している。しかし、これを境にヤスは病床に臥せるようになり、明くる年の3月18日に、76歳の生涯を閉じた。
 中島ヤスの生涯-それは太陽のように人を愛し、その情熱を女子教育に捧げ尽くした、尊くも偉大な生涯であったと言える。

Back